●会員による会員のための親睦・勉強会 第2回目●
日時:2005年12月6日 場所:築地・朝日エル会議室
題名:「市場事始め」 講師:江澤正平氏
講師の江澤正平氏は当フォーラムの名誉理事長。野菜の卸問屋に生まれ、大正から昭和の戦前・戦後、さらに現在までの市場の変遷を体験している、まさに市場の生き証人でもある。
今回は、市場の発祥から説き起こし、どのようにして今に至ったか、自身の体験も織り込みながら語っていただいた。
人通りの多い所、橋など人が停滞する所で物々交換をすることから始まった市場。
自然発生的に生まれた市場を、信長は計画的に樂市樂座とし、江戸時代には都市の発展に伴って幕府の管轄で市場が作られていった。自然発生的にできたのは日光街道の千住、中山道の駒込など。幕府はどんな野菜をいつ作っていいかも取り締まっており、足りない大根などは城内で作っていたとか。商業的な農業は江東から葛西にかけての江戸川地域が早く発展し、養蚕が主だった多摩川地域のほうが遅れをとった。それは今につながっている。
市場とともに、ねぎや大根、葉ものなど近在のものを扱う問屋、高価な初物を扱う促成屋などの問屋ができ、幕府の管轄で問屋組合も作られた。当時は問屋をそう増やさないためにも、4月以前はなすは扱ってはいけないなど(元禄時代のなすは高価!)、品目別に扱ってよい時期が決められていた。問屋組合は明治になってからは警視庁の管轄に。明治になって最初に整備された市場は、築地、神田、江東。荷車を引いたり、汽車で汐留に着いた産物を馬力で運んだため、後に中央市場ができてからも、神田には馬力を繋留する所が残っていたという。
1917年ロシア革命時のシベリア出兵に起因した米騒動には、講師の幼少時の実体験も。米麦法(後の食管法)の制定、中央卸売市場の開設は経済政策でなく、食べものを安定させるという社会政策だった。そして、1923年3月、市場には商いをオープンにさせるために「無条件委託、買い付けは許可制(競りが原則)、即日販売、委託拒否禁止」の4原則が中央卸売市場法として課せられた。ところが、法律制定の半年後に関東大震災が発生。1928年、秋葉原に1万坪の神田市場が開設されたものの、この法律はなかなか機能しなかった。
やがて準戦時体制から第二次世界大戦へ突入。経済警察が卸も小売りも価格管理を行う時代になったが、荒川・多摩川の川向こうは統制が及ばなかった。この統制が解除されたのは1949年。以後も中央市場法はあまり機能しないまま経済成長の波に乗り、1970年代にはスーパーマーケットが登場した。
1971年には先の4原則を踏襲する卸売市場法が制定されたが、買い付けが許可制で1か月もかかるなど、現場に見合ったものとは言い難かった。競りにしても、それで本当に公正なのかどうか、価格の継続性は望めない問題もある。肝心なのは、安全な食べものが安定的に供給されること。そのためにどうすればいいか、近年、食の安全・安心が大きな社会問題になって、いっそう問われている。少なくとも、「市場を通るものは安全と役所が保証すべき」ではないか。
そして最も大切なことは、人と人とのつながり。市場と産地、消費者との関係にしても、人と人との信頼関係が築けなければ長続きはしないというごく当たり前のことを、もう一度見直したい。
(文責 脇ひでみ)
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