タイトル<野菜の学校>
● 2012年度「野菜の学校」 ●
- 2012年4月授業のレポート -
【講義】

「江戸東京野菜」

江戸東京・伝統野菜研究会代表 大竹道茂(おおたけ みちしげ)氏

◆江戸東京野菜の認定はまだこれからも

 東京は東西に長く、中山間の農業もあれば、小笠原の亜熱帯の農業もあるという、大変変化に富んだ土地柄です。西端には雲取山など2,000m級の山ふところにわさび田があり、東端は0m地帯の沖積土壌、北区、板橋区、練馬区あたりは関東ローム層が広がります。東京中央卸売場に来るものは、だいたい東京界隈でも作られており、いわば日本農業の縮図ともいえます。

 このような背景で、では、江戸東京野菜とは?ということで、昨年、JA東京中央会でも検討してきました。固定種に限っていく方向ですが、江戸期から昭和50年くらいまでとなるとF1種も入ってくるので、まだこれから決めていくことになります。


大竹道茂氏

 現在22品目。種は30以上あることを確認しているので、流通し始めたら加えていこうと思っています。

 江戸東京野菜には物語があります。慶長8年、徳川幕府が開かれ、幕府は参勤交代を各地の大名に課しました。大名たちは、加工品は江戸に持ってこられますが、新鮮野菜は無理です。1630年代、大名たちは参勤交代の際に野菜の種を江戸に持ってきて、栽培を始めました。江戸に全国の種が集まったわけで、これは江戸ならではのこと。

 享保年間の江戸は100万人を抱える世界一の大都市で、お城の周りには数々の栽培地があり、すでに促成栽培も行われていました。江戸のみやげで大事なのは「種」で、中山道には種屋街道ができ、練馬大根、滝野川にんじんや滝野川ごぼう、三河島菜などの種が各地に持ち帰られました。山形・庄内の記録にも練馬大根があり、庄内の干し大根になっています。練馬大根にはいろいろなタイプがあり、三浦大根、信州の前坂大根、鹿児島・指宿の山川大根も、練馬大根が元になったもの。今はF1種になって復活した世田谷の大蔵大根もそうです。

◆野菜の学校で各地の伝統野菜との共通点を知る
 東京郊外の檜原村に「おいねのつるいも」という小さなじゃがいもが残っています。種は花嫁道具の一つでもあったようで、それを栽培し、料理して食べさせることで、花嫁の嫁ぎ先での居場所作りに役立ったのです。現在でも急傾斜地でいもが作られています。

 当地の大正13年生まれのおばあさんによると、何代か前のおいねさんという女性が山梨県都留郡から嫁いできて、このいもが奥多摩に伝わったとか。ねぎみそをつけて、とてもおいしくいただきました。

 このいもは、野菜の学校で昨年、信州の伝統野菜が紹介された際に聞いた話と同じで、群馬や埼玉にも残っているようです。

◆続々復活する江戸東京野菜
 江戸東京野菜について、もう少し説明しておきましょう。

練馬大根】

 練馬大根の発祥は江戸の徳川綱吉の時代で、綱吉が松平右馬頭(うまのかみ)と名乗っていた頃、脚気にかかってしまった。占いで城の北西部、馬の字がつく所で養生するとよいと告げられ、調べてみると「下練馬」があったため、そこに御殿を建てて養生することになった。そのあたりの百姓の役に立つようにと、愛知から種を取り寄せて大根の生産と普及に貢献したのが練馬大根の始まりです。綱吉の病は3年で癒え、城に戻るときに、「よい大根ができたら献上するように」と言い置いたことから、練馬は大産地に発展しました。練馬大根はたくあんなど保存食に向くことから、昭和40年頃まで盛んに作られていました。

 元々綱吉が脚気になったのは、当時、上級武士や富裕層は、玄米ではなく白米に精米して食べるようになっていたため、ビタミンB1不足になっていたから。それがわかるのは、明治43年にビタミンB1が発見されてからのことで、当時は、江戸に来ると脚気になり、国元に帰ると治ることから「江戸病」「江戸患い」などと呼ばれていたそうです。

三河島菜】

三河島菜

 これはもうなくなっていた葉物ですが、仙台芭蕉菜が同じものらしい。文献によると、白軸三河島菜と青軸三河島菜があり、青軸のほうが仙台芭蕉菜ではと思います。

 三河島菜のことを話したら、荒川区の栄養士さんが「子どもたちにぜひ食べさせたい」と、飛んできて、栽培が始まりました。卵にもよく合うと好評だそうです。

 三河島菜は肥料喰いの野菜で、円楽の落語にも登場しています。

汐入大根・荒木田大根】
 隅田川を上っていくと、荒川区に入り、西岸が汐入、荒木田などの地区。そこで栽培されていたのが、汐入大根や荒木田大根です。

 汐入大根は、かつて学校給食に出したら、辛くて評判がよくなかったそうですが、周りは辛いが、内側はさわやかな甘みがあります。食べてこそ残るのが伝統野菜です。荒川区では、畑はないのですが、地元の伝統野菜を大事に広げていこうという取り組みがなされており、観光課が飛びついてきました。

 江戸東京野菜の復活には、学校での取り組みが契機になることがよくあります。砂村三寸にんじん、砂村一寸ねぎは砂町小学校で、寺島なすは寺島小学校で、雑司ヶ谷なすは地元豊島区の中学校で、日野市では東光寺大根、荒川区の小学校では三河島菜という具合です。

 また東京丸の内にあるフレンチのレストラン「ミクニマルノウチ」では、生産者の名前をメニューに入れて、江戸東京野菜が使われているし、東京を食べるディナーのイベントが開催されたり、子どもたちが作った江戸東京野菜を料理して食べる試みも行われるようになりました。話題のスカイツリーのスカイレストラン「武蔵」でも、江戸東京野菜が使われます。

 さらに、総務省の補助を受けて、江戸東京野菜コンシェルジュを育成する取り組みもスタートします。

 先日、とてもうれしいことがありました。観光庁が行っている「Japan Thank You」キャンペーンの一環で、レストランガイド『ZAGAT』という冊子が発行されましたが、そこに江戸東京野菜が海外に向けて大きく紹介されていました。

 まだまだ広がることを楽しみに、今後とも進めていきたいと考えています。

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