第2章 野菜のおいしさに関する検討結果の概要
1 嗜好型官能評価
 嗜好型では日常での喫食条件をできるだけ加味した評価を行った。きゅうり、にんじん、ほうれんそうについて、あらかじめ専門家と野菜に関心の深い有識者による「食べくらべ」によって予備選別された代表的品種を選び7回の評価を実施した。パネルは東京農大栄養科学科の学生で官能評価論を習得した2年次以上の学生200名を母集団としたが、従来の経験からしても、少なくとも同世代の感覚・嗜好を代弁できるものと思われる。
 きゅうりの評価では、きゅうりらしい香りや味の強いものを好むか、それらの弱いものを好むかの2つのタイプが存在すること、離水しやすいものを水っぽいとするか、みずみずしいとするかなど、品質を分かつ決め手となる、似て非なるものに対する評価も相半ばして存在することが分かった。一部でブームとなっている歯切れを強調したミニきゅうりは、味や風味が伴わなかったため高く評価されなかった。
 にんじんにおいてもきゅうりと同様の理由で、高品質と大衆品とされているものでも平均値だけからみるかぎり好みに大差がなかった。砂糖を添加すると、明らかに甘すぎると自覚されても、砂糖添加に選択が傾いた。これは評価に際しては、にんじんとしての認知的判断よりも、感覚的な快で判断されるためであるが、試食販売や味見テストでは常につきまとう現象で、そのために食品は過剰に甘くなる虞があることが示唆された。にんじんの嫌いな人は、香りは弱くしてほしいが、甘味を強くすることは欲していなかった。伝統ある長人参は、BRIXも高く味、香りが濃厚で密度が高く、煮ることによって甘味、うま味、風味が増強され、やわらかいだけでなく噛み応えもあるという点で、優れた品質の特徴を発揮した。とくに、にんじんの好きな人は、うま味に対する感受性が高かった。しかし、食べ慣れない人には、香りも弱くて揮発しやすく、人参らしさの少ないものの方が高く評価された。
 ほうれんそうでは、BRIXが高く肉厚なものが高く評価され、とくに寒締めは高く評価された。葉が薄く、茹でたときの歩留まりが少ないものは低く評価された。水耕栽培の生食用は葉が薄く、歩留まりももっとも少なかったが、ベーコンやツナとのサラダでは高い評価を得た。しかし、ほうれんそうが好きでない人は、ほうれんそうの特性自体を好まず、新奇性愛好度も低いため、サラダによってほうれんそう好きにする可能性はほうれんそう好きの人より低いことが示唆された。
 これらの評価事例を通して、野菜の食味評価のあり方や、あるべき野菜の開発方向を考える場合に考慮すべき、いくつかの重要な点が明確化された。まず、野菜の消費者は常にその野菜を好きな人とあまり好きでない人、鑑別力のある人とない人から構成されており、それぞれが対立した価値観をもつ集団で成り立っているという基本構造が明らかにされた。その構造を分けて考えなければ、優れた品質は切り落とされ、どちらつかずの中途半端なものしか生き残れないこと、野菜が好きでない人の嗜好のみに合わせれば、野菜は限りなくその特徴や個性を失う方向に流れること、鑑別の基盤となる着眼点を明確化しなければ、品質はとめどなく低きに流れる構造になっているということである。
 また、野菜の嗜好形成には苦味や独特の香りなど生得的には好まれない抑制因子を学習や馴れによって克服する必要があるが、それをショートパスして野菜嫌いの人の嗜好を高めるために、甘味の増強、抑制因子の減弱などの方法を一方的に進めることは、野菜好きな人を野菜離れさせるばかりか、野菜の品質の奥行きを失い、嗜好の発達を幼児段階に止まらせることになることも示唆された。とくに甘味の増強に関しては、すべての人が甘ければよいとするわけではなく、必ずしも野菜嫌いな人の要望に合致しているとは限らないことも示唆された。成人になってもにんじんが好きでない人はむしろその甘味も好んでいないということも認識すべきである。また、そのために、野菜の本来の微妙なほろ苦さやうま味などの味の深みが閑却され、和食文化の根底をささえてきた繊細な味覚そのものの崩壊に繋がることが示唆された。
 野菜の評価では、調理法が重要であることも示された。にんじんやほうれんそうは加熱調理によって生食では発揮できないポテンシャルが発揮できるが、それを品質の決め手として営々と改良され伝承されてきた品質は生食で味わっても顕在化されないか、必ずしも快とは感じられないが、生食のみで評価すれば、そういったポテンシャルは見過ごされ、容易に感知される特性のみで評価されることになり、必然的に品質は表面的な特性のみをクリアすればよいことになる。
 それと関連して、加熱して食べる料理への嗜好性が定着しているにんじんやほうれんそうにたいしては、生食への嗜好は未形成の段階にあるが、あえて生食を増やすことによって、本来の加熱調理が減り、野菜自体が生食にも向いた方向に変化するとすれば問題であることも示唆された。生野菜は嵩が多くても重量を多く摂取できない。総合評価にもっとも大きく寄与するのは味であったが、生では味成分を味蕾に送り込むことが困難であるために、野菜本来の微妙な味わいを十分に認知することができないので、真の野菜好きを育成することができにくく、さらなる野菜の消費量低下へと繋がることが危惧されるからである。
 加熱ではないが、消費量に大きく寄与する漬け物に関しても同様のことがいえる。きゅうりでは学生は漬け物を好むがそれ以上にサラダを好んでいた。そのために求められるきゅうりの質も味よりは食感などに力点が傾く可能性も示唆された。歯触りを強調したもろきゅうが一部でブームになるのも、それと無縁ではないことが推察された。
 野菜の消費量を増やすには、従来の多数決原理を脱却し、上記の2種類の消費者をはっきり意識してターゲットを明確にした品質を開発すると同時に、消費者には用途と品質の違いや、見分け方のポイントを明らかにして示す必要がある。また、和食文化で培われた伝来の煮物や漬け物の価値を再認識し、確かなエビデンスを固めて戦略的に普及をはかる必要がある。そのためには、理化学分析との連動を強化しつつ、さらに事例を増やし、消費者のタイプに合わせた評価基準を客観的に示せる多次元的な基礎データを確立する必要がある。
(東京農業大学教授 山 口 静 子)
 


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