第3章 野菜のおいしさに関する検討結果
T 嗜好型官能評価結果
3 評価結果に対する補足と考察
(7) 野菜のおいしさの必要条件
   野菜は種類も多く特性も様々であるが、ある程度共通にいえるおいしさの条件をあげておく必要がある。そもそも野菜は高蛋白質、高脂質、高カロリーの栄養源である肉や魚などのメインデイッシュの脇役として、彩りや、香味によって引き立てるとともに、微量成分であるビタミン、ミネラル、機能性成分の給源であり、食物の総摂取量や消化吸収を調節し、食物繊維や、水分を補給するなど多様の働きをする。香味野菜を除けば、量的にも大量を飽きずに食べられると同時に、様々な種類が存在し、食べ合わせることによって必要な元素を遍く摂取できる必要がある。
 そのために野菜はそれ自身の味は強すぎず、多くの食材や調味料とも調和し、しかもそれぞれがそのものらしいアイデンテティをもつ必要がある。
 特に忘れてならないのは、肉や魚など動物性食品と野菜を同時または引き続いて食べるときに引き起こされるうま味の相乗効果である。鍋料理やシチュー、あるいは刺身とツマなどで引き起こされる相乗効果は、動物性食品と植物性食品にそれぞれ含まれているイノシン酸とグルタミン酸によるもので、両者を組み合わせることによって、うま味は飛躍的に増強され、そのために無意識のうちに動物性食品と植物性食品を組み合わせ、栄養バランスをとらせるよう合目的的に働いている。
 野菜の本領はこうした絶妙なハーモニーのなかで、それ自身は突出して他を圧することなく、他を生かすことによってその持ち味も生かされるところにある。もし、野菜がデザートのように甘くなったり、肉や魚の味になったり、アイデンテティとして重要な香りがなくなったり、あるいは1つの味だけが増強されて浮き上がれば、相乗作用などもかき消され、食物の選択、摂取の秩序は根底から崩れることになる。特に甘味はうま味をマスクする。また体内に糖として一時に多量を蓄えられないために、飽きやすく、量的にも大量に食べられないことにも注意しなければならない。調味料は素材の持ち味を引き出すものである。最近の野菜は味が濃すぎて調味料が使えないという現場の声があることも銘記すべきである。
 味が強くないということは味が単純ということではない。野菜にはビタミンやミネラルはじめ無数の成分が含まれている。それらをできるだけ多く味わい分けるには、Weberの 法則からしても、味は弱くなければならない。香りも味も「濃い」には濃度が高いという意味の他に、こまやかという意味がある。また、「こく」にも通じている。今回用いた長人参は、いささか味も香りも強すぎたかもしれないが、その価値はこの意味でのこまやかさにおいて抜群のものであった。こういった味わいの深さこそが野菜本来の味の特徴のはずである。近年の市場は本来無数の特性から成る食味のなかの限られた特性のみを強調することによって差別化しようとするために、目立つ特性だけで、野菜が評価されることになるが、そのために食品が表面的で薄っぺらなものになることは警戒しなければならない。
 日本人は山菜や木の芽、茶の湯を好み、わび、さび、渋みの奥行きを解する精神性の高い民族である。野菜の味わいは大地の成分を含む地味であり、野生の味でもある。しばしば苦味もあるが、苦味物質には薬理効果があるものも多く、機能性も期待できる。お茶が甘ければ菓子を引き立てられないように、不快であっても、それ故に一層快が引き立てられる。その学習のプロセスをショートパスして、生来口に快いもののみを追い求める風潮は、古来の高い精神性に照らして顧みる必要がある
 野菜の評価で導入すべき2つの座標軸のその第2、品質鑑別力についても述べなければならないが、一般の消費者が、予備知識もなしに品質を見抜くことは一朝一夕にできることではない。しかし、学生でも分かる人とそうでない人、分かる時と分からない時があり、これは一般の人の集団と同じである。分からない人も、例えば、今回の官能評価でも、離水しやすい、歩留まりが少ない、などの情報が分かっていれば、判断基準は自ずから違ってくるはずである。味の基本的な性質などの知識の有無でも価値観は変わってくる。核家族では生活の知恵も伝承されることもなく、品質鑑別能力を鍛えられた八百屋も少なくなり、対話もなく売買されるなかでは、野菜の生産者や販売者は少なくとも、その野菜の持つ感覚情報、適切な調理法、品質の特徴と見極め方を、おいしさ情報として表示することを提案したい。それは必然的に消費者に賢い選択を促し、それが生産者にフィードバックされることによって野菜の品質を高め、野菜の本来のおいしさを引き出す調理法へと導くことによって、和食文化の優れた伝統と食べ方を守ることへと繋がることによって消費量増大に繋がるはずである。
 


(8) おいしさと倫理
   科学技術の進歩はあらゆる食品を人間の欲望に合わせて自在に改変可能にしつつある。そのことの是非について論じることは範囲を超えているが、近年の食品開発をみれば、多少とも考えないわけにはいかない。日経新聞(1007.1.4.夕刊)に掲載された奇抜さを呼び物とする野菜に関する記事では、カラフルな大根、黒い大根、首の細長いブロッコリー、黒いトマトなど、常識破りの野菜は枚挙にいとまがなく、当たり前では満足できない消費者の心をつかむには、奇抜さが生み出す新鮮なひと味が欠かせない、という内容の記事に対して、大学生80名に、次代を担う食品の専門家を志す者としての感想を求めたところ、楽しい、すばらしいと感嘆したり、急速な変化に対応して行かなければならないと自覚を新たにしたり、そういうものがあれば食べてみたい、野菜に興味を持たせるきっかけになる、やり甲斐を感じるなどという意見もあったが、はたしてそれはいいことなのか、悪いわけではないが、必要なことはもっと別にあるべきだ、複雑な気持ち、矛盾を感じた、珍しいものに引かれるのは一瞬で、すぐに飽きる、日常食べて飽きないものこそ大切、当たり前のものが希少価値になるのではないか、踊らされず物作りの心を忘れないでほしい、邪道だ、当たり前では満足できない消費者のために商品開発に力を入れている事実に悲しみさえ覚える、果たして新しい商品を開発することは歓迎されるものなのだろうか、疑問がわいてしまった、その野菜特有の風味やくせ、味、色はどれも意味のあるもので、改良よりも何よりもまず、伝統食材を廃棄することのないようにすることが大切なのではないだろうか、新しいものを作り出すことは少々控えめにして、感謝の気持ちや旬のものを調理して食べるということを国民全体に食育やメデイアを通して伝えていく必要があると思う、本当にこれから先、どんな野菜がでてくるのか恐ろしい気もする、私も物好きの一人だが、食べ物というのはまた別の意味をもつものである、このまま行くと、キャベツやナスなどという野菜はなくなり、料理も食生活も何の伝統もなくなってしまうのではないかと危惧する、食品もまた命ある生き物であり、人間の勝手な欲望は許されない、等々、手放しで賛成するよりも、戸惑いや疑問、自戒などの方が多かった。これは若い世代の生の声として心に留める必要がある。
 


4 おわりに
 主題である「おいしさ」については最後まで無定義のまま過ぎてしまったが、少なくとも、それは一次元では捉えられないもので、食べる人の問題であることだけは明らかにされた。おいしさの評価はどういう人の評価であるのかをクリアにしないと、品質は低落の一途を辿るという多数決主義への問題指摘は、これからの野菜の開発の方向に大きな影響を及ぼすはずであり、またそうでなければならない。次に行うべきことは、それを踏まえて、おいしさの指標をより明確化することである。それには、官能評価と理化学特性の対応、消費者特性のさらなる掘り下げが必要であり、本格的に取り組まなければならないのはこれからであるが、本プロジェクト研究がその嚆矢となることを期待する。
(東京農業大学教授 山 口 静 子)


 
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