ヒントがなくてもだしやうま味を識別できる人もいるが、甘味やにんじん臭さの部位差で判断してしまう人もほぼ同数いることが推定される。ヒントを与えられるとうま味やだしの違いに気づくが、それでもなお甘味やにんじん臭さの部位差を大きく感じる人もいて、食べ進むほどにうま味の違いに気づく人が増えてくることが窺える。
つまり、野菜のような天然食品の味、風味、食感は蒲鉾のように一様ではなく、また、食べる行為によって刻々と変化する複雑なもので、食事という一連の行為の中で展開する様々な感覚はオーケストラにも喩えられ、そこに展開する特性は無数である。人は第一印象だけで全てを把握できるわけではない。はじめは気がつかなかった特性でも味わっている間に気づくか、あるいは会話で指摘されて気づくこともある。そしていろいろな特性を感じながら最終的においしいと感じられるものが真のおいしさとして記憶に残るものである。つまり、おいしさには経験や学習が必要である。うま味という味は、他の基本味のように明瞭な味ではない。しかし、日頃からだしを大切にしている人であれば、いわれなくても瞬間的に意識はそこに行くはずである。日本人がうま味に敏感なのは、生理的な味覚感度の違いではなく、「だし」を料理の基本として大切にする文化が定着しているためであるが、そういった日本人の味覚を大切にする必要がある。
これは極めて重要なことで、もしにんじんの評価が、生食でなされたり、調理の一面のみでなされるならば、にんじんの真価は見過ごされるということである。野菜は、ベジタリアンは別として、肉や魚などのたんぱく質食品と組み合わせて食することが栄養バランスからしても重要であり、うま味の相乗効果はそのことによっておいしく食べさせ、栄養バランスを採らせるために合目的的に働いている。ベジタリアンであっても肉の代わりに茸を用いるならば、そのなかのグアニル酸は肉や魚のイノシン酸と同様の働きをする。野菜は甘ければいいというBrix至上主義は見直すべきといえる。
野菜をおいしく食べるには、しっかりとだしをとり、素材の持ち味を生かして食べる調理の技というものがいかに重要かということもいえる。また、僅かな醤油や酒の添加でも大きく変化することも示された。料理の味付けは塩梅ともいわれるように、僅少の加減が料理の死命を制することはいうまでもない。手間、暇をかけない料理に向くような野菜の開発を目指し、消費者も時間に追われ調理をおろそかにする(したくはないが、せざるを得ない)限り、おいしい野菜は味わうことができないということを認識すべきである。
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