三河島菜は結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬け菜で、江戸時代初期に、三河国(愛知県)の百姓が入植して作り始めたと伝えられている。本来三河島菜という特定の菜はなく、三河島で生産される漬け菜のいくつかの品種の総称とした説が有力。アブラナ科の野菜は交雑して変化しやすいため、三河島菜はいくつかのタイプがあったと推測される。当時冬に食べる菜っ葉類は乏しかったので、小松菜や三河島菜が栽培されるようになった。
「荒川区史」によれば、三河島菜という名前は徳川幕府初代の頃に名付けられた。産地は現在の荒川区尾久周辺だが、関東大震災後の都市化で農地が急減。さらに明治期に導入された白菜が漬け菜として主流になった結果、三河島菜は次第に作られなくなった。
また、荒川クリーンエイド・フォーラム代表理事野村圭佑氏の談では、軟らかい三河島菜を作るには短期間に大量の窒素分を与える必要があり、このような伝統的栽培法が伝承されなかったことも、白菜に負けた原因ではないかとのことである。
江戸野菜の三河島菜は参勤交代とともに仙台に伝わり芭蕉菜となった。「蔬菜栽培法」の中に「三河島菜(仙台にては芭蕉菜と称す)、東京都荒川区三河島で作られていた三河島菜が仙台芭蕉菜の起源と思われる」とある。現在では、江戸野菜「里帰りした三河島菜(通称里帰り菜)」として、普及に力が入れられている。
昭和の初めには「あの人とあの人は三河島の菜だよ」などと会話で使われた。三河島の菜は「良い菜漬け」になることから、「いい菜漬け」と「いいなずけ(許婚)」とを掛けた洒落である。
用途はもっぱら漬けもので、熱湯で湯通ししてからつけるとやわらかく漬かる。漬けた葉でごはんを巻いたり、いため物、鍋などに。古漬けは煮ものにしたり、みそに漬け直す方法もある。間引き菜は、汁の実、おひたし、浅漬けにする。
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